【秋山淳のセカイ】
自己紹介
1993年大阪府生まれ。2020年1月に西粟倉に移住。村民5年目。
兵庫県丹波市にて百姓として生きる祖母との原体験が全ての活動の源。
「孤独にならないための一人席をまちに添える」を使命に、コミュニティマネージャーとして場づくり、建築士として空間設計を行なう傍ら、常にカメラを持ち歩き、「情景」の記録として日々、村の方々の写真を撮っている。
自然との距離を見直し、自然を”間借り”し、生き物と空間を共有する建築や空間の在り方をこの村で研究中。
なぜ森々燦々を開催しようと思ったのか
元々は自分が撮りためたこの地域での写真を、地域の方々に公開する機会を持ちたい、と考えていた。日々の活動で森林に入ることも多く、純粋に「森」という空間を心地よく感じ、その空間を活用した写真展示をおこなってみたい、という自分自身の好奇心がはじまりだった。
ただ、自身の個展ではなく「表現展」として人を巻き込んででもこの森々燦々をやろうと決めたのにはいくつか理由がある。
「『無い』から自分たちでつくってみることにした」
・芸術や文化に触れられる機会が圧倒的に少ない (文化施設が遠い) ・森林は身近にあるが生活の中で活用することはほとんどない ・答えのないものを創る、表現する場や機会が少ない |
いわゆる田舎で暮らすことは自分のリズムや価値観として馴染むものがあるけれど、芸術や文化に触れられる機会が圧倒的に減ったことは間違いない。
最近まで本屋もなく(それどころかスーパーもコンビニもない村だ)、もちろん美術館などの展示が行われる場はもってのほか・・・。
自分で車で移動できない子どもたちや、年配の方々は特に地域のそもそもの環境としてのポテンシャルに依存せざるを得ない。あるのは面積の94%を占める森林。
といっても、森林も確かに身近にはある。けれどそれは”物理的に”身近であるだけだったりする。
というか、ほとんどの人が森林との距離感ってそんなものじゃないだろうか。
”森林”というものを当たり前のように知っているけど、それが日常・非日常でも生活の中にある人はそう多くはない。田舎に住んでいたとしても。
一方で、私は村での暮らしの流れの中で、森林のことを少しずつ知り、その心地よさや不思議さ、そして手の届かなさ、面白さを知った。「面白い」と思える空間・場だと思うから、その場を借りて自分たちで芸術とか文化とか、そんなことを考える時間をつくってみたらいいんじゃないか、とそう思った。
「可能性がある地だと思うから」
・生き物や森林を体感するフィールドがある ・新しい挑戦を応援してくれる村の方々がたくさんがいる ・森林の活用や学びに関わる仲間、自然が好きな仲間がいる |
無いものは仕方がない。
一方で、私が感動するほどに、あるものがある。
それは自分が知らなかった(自分には見えていなかった)セカイの面白さを見せてくれるフィールドや仲間がこの地域には集まっているということ。
私は春になったことを、桜ではなく家の前の土手にシソ科の植物が真っ先に花を咲かせたことで感じる。山や森を歩いていても、それが「緑」ではなくクロモジでありアブラチャンであり、それぞれが個体としても違っているというその差異を認識し、そこに面白さを感じるようにもなった。
土壌には顕微鏡という画期的な道具を用いると見える、トビムシやカニムシなるものがいることを知り、ただの地面ではなくなった。
そう思えるようになったのは、その楽しさやそのセカイを見ている友人が身近にいたことが大きい。
ユクスキュルなる昔の哲学界・生物界の偉人が「環世界」と言ったようだが、私は決してその友人と同じ景色を見ることはできない。けれど、その「見方」「見え方」を言葉や目に見えるあらゆる手段を使って共有してもらうことはできた。この経験は、私だけが経験してみたものではないはず。改めて、まだ知らないセカイの見方をしている方々に出会えるような、そして共有しあい、仲間が増えるような、そんな時間を、この村なら作れるように感じた。
「セカイの見え方を共有する」
今回の「森々燦々」という表現展は、ぼくら一人一人が見ているセカイが違うこと、生物や個体ごとによっても違うこと、を大前提に、それぞれに見えているセカイを共有しあうための時間。
芸術と聞くと難しく感じるかもしれない。
けれど、これはあくまで「表現」の集合体だ。ぼくらは誰だって表現者である。
「背景」としてではない自然による心の豊かさを知った。
それを共有しあえる場を森で表現展という形でつくります。
森々燦々2024 西粟倉の森林にて開催。
共感いただける方、興味があるよ!という方はぜひ作品出展などご参加お待ちしています!